小夜左文字は膝上の本からそっと視線を上げて隣を窺った。座布団三枚ほどの視線の先では長兄の江雪左文字が書見台に向かっている。 先ほどまで部屋にいたのは次兄の宗三左文字の方だった。腹ばいに寝そべり、小夜はその腰を枕にめいめいの読書に興じていたところ、廊下に気配を察知して飛び起きた次第である。 すらりと襖を開けた江雪は並んでかしこまった二振の弟を暫く見下ろしていたが、 「そうざ、」 小さく呼びかけた。 「本が、逆さまですよ」 骨董品を棚に戻すような独特の間と抑揚で告げたのち、部屋の定位置に腰を下ろして自らも読書を始めた。
真夏の部屋は明るく静かで、時折兄が頁を捲る音だけが聞こえていた。 次兄はふらりと出て行ったきり戻ってこない。読みかけの雑誌が伏せられたままになっていることから、少なくとも席を立った時点ではすぐに戻るつもりだったようだが。 「小夜、」 次に呼ばれたのは自分だった。これも小さな声だったので小夜は束の間空耳を疑い、横顔の兄の唇を注視したが思い直して一拍遅れた返事をした。骨の目立つ大きな白い手が短冊状のものを差し出してくる。栞だった。反射的にありがとうと呟いてしまってから、これは宗三の置いて行った雑誌にだと気が付いた。伏せられた三角ロゴの表題と赤枠表紙のものはどちらも明らかに借物だ。 「挟んだ、よ」 四つんばいの肩越しに振り返った横顔は微かに頷いた、ような気がした。目を閉じている。小休止なのか瞑想なのか、動かずにいると白い睫毛は霜が降りたかのようだ。 上目遣いに氷像を見つめたままそろそろと元の位置に帰る。心なしかその上体が揺れている、と感じた次の瞬間にまろい頭が薄青の尾を曳きながらいきなり向こう側へと消えた。 驚いて駆け寄った。表情に苦しげな様子はない。白い顔色は元からだ。 呼びかけに返事はなかった。呼吸を確かめようと掌を顔の前にかざしたが緊張の為かよくわからない。ならば心の臓はと思ったが横臥した胸には耳を当てられまい。であれば。 小夜は素早く、けれど静かに兄の上に伏せた。露わに伸びた頸から脈を辿る試みだった。白い肌の内側に意識の焦点を合わせようとしたところで。 「……見ぃちゃった」 いつの間に戻っ戻ったのか、襖の蔭から次兄が片目だけを覗かせていた。紅を塗っているわけでもない桃色の爪が碧色の側でつやつやとひかる。 「小夜が兄上にちゅうするところ、見ちゃいました」 「してない」 「照れくさいなら黙っててあげます」 「だ・か・ら・し・て・な・い・っ・て・ば」 昏倒か墜落睡眠かの判断はつかなかったが、いきおいふた振は囁き声で応酬しあう。 眠ってしまったのであれば今のやりとりで目を覚ましたのではないかと、小夜はもう一度江雪の顔を覗き込んだ。 短い眉の間に怪訝そうな縦皺を寄せる。 暫く無言で様子を窺った後に、今度こそ宗三の言葉どおりに白い頬にくちづけた。 きゃあ、と楽しげな悲鳴をあげた次兄にからだを起こしてひとこと。 「………アイスになってる」
江雪左文字は美しい。しかしある種の強面と言えた。 彼が紺色の瞳だけで周囲を睥睨し、ひき結んだへの字口から溜息をこぼすと、傍にいる者は何か叱られるのではないかという危機感を無意識に抱いて身構える。 これに共感を示したのが太郎太刀だった。曰く、私も普段通りにしていると、ときどき怒っているのかと尋ねられます。 このやりとりがきっかけで、交際があまり得意ではない二振りは初めて本丸に身内以外の馴染みを見つけたのだった。
「距離が縮 ま り ま せ ん … …」 「何があったのですか」 「さきほど部屋に戻りましたところ、宗三と小夜がいまして」 「はい」 「本を読んでいました。こう……座布団の上に正座して、腕を直角に伸ばして」 「流石、江雪殿のご兄弟ですね」 「違うんです」 「違うとは、」 「私が戻る前は寝転がって読んでいた筈。そのまま寛いでいても良かったのに。………私がいてはそんなに気詰まりでしょうか……」 「そんなことはありませんよ」 「でも、現に」 「江雪殿を見習ってみたかっただけなのではないでしょうか。相手の仕草を敢えて真似してみることで、好感をもたれやすいという調査もあるらしいですよ」 「……と、いうことは………?」
数時間後。ほろ酔い加減で戻って来た次郎太刀は、畳の上で七転八倒の自由形を試みる、やたらと嵩張る二振を発見することになる。
手にした大きな匙を、いつから握っていたのか覚えていない。 弟二振はアイスクリームと化した長兄をせっせと胃の中に片付けていた。肌は乳味、畳に散った長い髪はほんのり曹達の味がした。出来る限りひと口を大きく掬ってなかなかに良い進み具合と言えたが、口をつけていない部分の輪郭は室温で徐々に覚束なくなってきている。 「ねぇ、兄さま、」 冷たさに痺れてきた舌をどうにか操る。ものも言わずに手と口を動している次兄は視線だけを返事に寄越した。 「応援を、呼ばなくていいかな」 例えば長兄の古馴染み。この本丸の初期刀候補として最後まで残ったそうである一振は、旺盛な食欲と熱い舌とでこの雪山を倍速で崩しにかかってくれるだろうし、その本歌たる一振は、そもそもなぜ兄がこうなったかについて心当たりがあるかも知れなかった。食べきれなかった分をせめて美しく保存するのにも知恵を貸してくれそうな気がする。このふた振以外にも、本丸のどこかで今はひっそりと夏をやり過ごしているであろう刀たちも。 掬い取った兄を溶かし、飲みこむ息継ぎの間に提案してみたのだが。 「本気ですか」 返って来たのはにべもないひとことだった。 「他の刀を呼ぶだなんて。……小夜は、本当に。…それでいいのですか」 答える間にも次兄は手を休めない。膝の上に置いた冷たい足から足袋を外す。脱がせるというよりも剥いた風情だった。口を大きく開けて踵からくるぶしに齧り付く。 「僕は、厭ですよ。だってこれは……僕たちの、兄上じゃないですか」 「でも、融けてしまぅ、」 「こうすればいいんです」 小夜が猶も言い募る様子を見せると、数珠を巻いた腕は空調の温度設定を極限まで下げ、これで話は終わりとばかりに遠隔操作器を放り投げた。
小夜は匙を咥えたままそれを拾い、風が自分たちに、とりわけ長兄に直接当たらないようにと向きを変える。 のどを伝い落ちていく冷たい乳の塊と一緒に、次兄の言葉が腑にほたりと落ちた。 だれにもわたさなくていい。これはぼくたちのあにうえなのだから。 ―――その考えは、冷え切っていた筈の身体を昂ぶらせた。こうしてはいられなかった。 食べて良いと許されたわけじゃない。だの、手入部屋に運ばなければだの、不在の審神者にはともかく初期刀には報告しなければだの。脳裏には性懲りもなく分別めいたあたりまえの判断が浮かびつ消えつしていたが、小夜の煩悩はあっさりとこれを無視した。 そんなことはもうどうでも。音もなく崩れてあまく横たわり、緩やかに融けかかっている江雪兄さまを、いま僕らのものにできるなら。 舌から口内へ、口内から全身に沁みわたるあまさに小夜は陶然と瞳を閉じた。これが自分たちに専有されるべきものであると宣言した次兄を、こころから尊敬し、頼もしく思う。 ゆったりと息をつき、満足の微笑とともに次兄を見遣れば、何やら片頬が膨らんでいる。 「にいさま?」 カラコロと涼やかな音が返事をした。 何を食べているの、と尋ねようとして長兄の左目に突き立てられた匙に気が付いた。 「……ずるい!」 思わず叫ぶ。小夜の興奮を余所に宗三は歯裏に目玉の当たる音を愉しんでいるようだった。 「ふたつあるのですから。もう片方は小夜が食べれば良いでしょう?」 「そういうことじゃなくて……!」 飴(?)を含んでしまうと長く口の中を占領してしまうので他のものが食べられない。こうしている間にも少しずつ崩れているに違いないのに。 「もう少し考えて食べてよ…」 「お前はお楽しみを最後まで取っておくタイプですよねぇ。……ね、小夜」 つめたい涅槃像越しに兄が身を乗り出してきた。 「そろそろ、首にいきませんか」 鼻先で囁く呼気から微かに曹達の匂いがする。お楽しみをいの一番に平らげる流儀の彼にすれば、小夜が腕や腰に齧りついている間は待ってくれたつもりなのかも知れなかった。そう考えると無碍に早いとは言えず。 「銀のお盆があれば良かったね」 輝く面にこの蒼い首を置いたら。そしてそれを捧げ持つ傾国がうっそりと笑みを浮かべたら。 「……舞うのは敦盛でも?」 舌なめずりの次兄が差し出した掌に小夜は自らの本体を載せた。柄と鞘を両側から引いて刃を抜き放つ―――――。